2015年5月1日金曜日

当ブログのモチベーション


世の中、楽しいこともあれば辛いこともある。望んだものが手に入る保障などありはしない。当然のことである。
しかしたとえそうだとしても、敢えて強調したいのは「心を患う者にとって、あらゆる不運は拡大するものである」という事実である。

何かの問題に遭遇した時、心が不自由な者はその内的・外的な力の乏しさから不当とも言える苦労を強いられることになる。
ありふれた「些細な問題」も、不自由な心を持つ者には「極めて困難な問題」となるのだ。
さらに、そうした厳しい道のりを「人に応援されていない」という思い(あるいは事実)の中で歩んでゆかなければならない。

その、身を焼かれるような苦しみを私は知ってしまった。
「がんばる意欲」そのものにフタをされ、「最低限の威厳」さえ底をついたギリギリの境遇。
今日も誰かが人知れず踏んばっている。
その事実とその姿が、私の心を離れないのだ。

そこを抜け出す方法が「瞑想」に詰まっている。そのことを伝えたい。
とっつきにくさもあるが、他の何にも勝る効果・意義があるので、生きることが苦しい全ての人に取り組んでもらいたい。


最も苦しかった頃、私には人生が「苦痛・喪失感の塊」にしか感じられなかった。
そんな悲しいことは、あってはならないのだ。
そんな人が一人でも減ればいい。
せめて苦しみが和らいでくれればいい。

その祈りが当ブログのモチベーションだ。
誰か一人の目にでも届けばと願う。



2015年4月11日土曜日

無題


20136月に始めた当ブログを、ひとまず幕引きとしたいと思う。

約1年10か月続けてきた当blogであるが、書きたいこと・書けることをだいたい書き終えたように思う。
うつ病の方が読むことも想定しているので、記事が多くない方がよいとも思っている。

訪問して下さった方々との御縁に感謝したい。
さらに、貴重な時間を割いてコメントまで下さった方々には御礼の言葉もない。
簡素なブログ運営だったが、その醍醐味を味わい、楽しい経験をさせて頂くことができた。

世の中の『生きる苦しさ』を抱えた心が少しでも癒やされ、そしてその全てが健やかに、最大限元気になる日がくることを願って止まない。
お付き合い頂き、どうも有難うございました。

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「考える」生活から「感じる」生活へ


うつ病改善の道のりは自分の身体をしっかり感じなおす道のりだ。
それは、考えごとを最小化する道のりとも言える。

前回述べたが、うつ病では「考えごと」自体が体調悪化の原因になる。
このことは、ほぼあらゆる行為が体調悪化の原因になりうることを意味する。
何らかの「考え」に基づかない行為は殆どないからだ。

なのでうつ病になったら極力、全活動を休止したい。
できる限りスイッチをOFFにしまくる。
「何もしない」をめざし、瞑想的な過ごし方に専念するのだ。

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瞑想に取り組む上で私が重要だと感じることを改めて記したい。


● 何をするか
深呼吸しながら、
・「今の身体の感覚」を感じる
・「頭に浮んだ場面(過去など)における、その時の身体の感覚」を思い出す
 
● 注意点
1 どの場面を扱うかは思いついたままでよい(神経質になるのが最もよくない)
2 なるべく全身の感覚を「同時に」思い描く
3 「目」に入れていた力の再現を忘れない
4 他者を意識することよる内面の力みも探る
5 深呼吸をキープする

● 解説
・2の「全身を同時に」は慣れてきてからの目標。はじめは一箇所ごとに感じることに慣れることからでOKだし、数か所だけでもよいだろう。ガンバり過ぎないこと。
・3の「目」の力みは見落としやすい。目にどんな力が入るか。何を見ていたか。
・4意識する他者により、内面に生じる感触(力み)の違いにも注目してみる。

(身体を感じるということがピンとこない場合は、スローモーションの記事も参照頂きたい。)


ちなみに上記のワークは健康な人がやってもメリットがある。
内面が整い、集中力や感情バランスなどが改善するはずだ。


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余談だが、私の考えでは上記を高度に進めていくとブッダが言った「悟り」に通じる。
悟りの境地、それは人間が生まれて物心がつく前、情報による影響をまだ受けていない状態と同じものだと私は思っている。
つまり「悟り」とは先へ進むことではなく、元に戻すことである。

そのように想像の羽根を広げるのは楽しいが、この先を語り尽くすことは私の能力や割ける労力を明らかに超えるため、この辺で切り上げたい。



2015年4月10日金曜日

うつになったら「考えごと」をやめる 2


うつ病になってから、私はいつもコンディションの「変化」に悩んでいた。
何をしたわけでもないのに体調・内面の感触がコロコロ変わる。
常に後手の対応を迫られ、疲弊した日々を過ごしていた。

当時は「なぜ何もしないのにこんなに体調が変動するんだ?」と、戦々恐々と過ごしたが、今にして思えば「何もしないのに変化する」という認識は正確ではない。
本当に何もしていないのなら何かが変わるはずがない。
実際には「問題となる行為」を無自覚のままにしていたのである。
それは、「考えごと」であった。

これまで再三にわたって「うつ病では自らの身体感覚に無頓着なのがダメ」と述べてきた。
実はその身体感覚の無視の多くは、「考えごと」の最中に自動的に生じているものだ。
考えごとをするだけで、意識は身体感覚から離れる
前回述べたように、考えごとは基本的に「視点を他者に移す=主体を明け渡す」行為であり、その内容の健全さに関係なく身体感覚の受け止めを希薄にさせる方向に働く。

うつ病などの回復が難しいのは、「考えごと」の危険性が認識されていないからだと私は思う。
うつ病になっても当然それまで同様、思うがまま「考えごと」くらいする。当たり前である。
しかし、実はそうしながら無意識に自らの病気に燃料を注いでいるのである。
これは恐ろしい事実だ。
ついでに言えば、病気の不調により「心配」という「考えごと」が増大しているのだ。

「身体の感覚を感じ取る」よう心がける時間を増やそう。それにより自動的に考えごとも減るので心配いらない。
ただ差しあたり「考えごとの危険性」を認識しておいてほしい。
それはあまりに私たちにとって身近なものである。
そしてそれは私たちをあまりにもたやすく「身体感覚の無視」状態へ導くということを、病人はゆめゆめ忘れてはならない。
そのことの理解が、様々な場面で生きてくる。



2015年4月3日金曜日

うつになったら「考えごと」をやめる 1


うつ病になったら「考えごと」を極力やめなければならない。
「良くない・ムダな考えごとを」ではなく「考えごと全般、考えごとそのものを」である。

話の順序として、まず「考えごと」はどんな姿なのか考えてみたい。

まず形としては、「考えごと」というものはムービーに限りなく近い形態をしていると思う。淡い映像音声のようなもので認識されているはずだ。

そして内容については、それらは自分以外の誰かの見解や思惑を追いかけるものが多いのではないだろうか。個人差があるとは思うが、かなりの頻度で「他者の内面を想像」していないだろうか。

「他者」の範囲は、友人や知人、果ては会ったこともない者・架空の人物にまで及ぶ。
「私の考えごとの主人公は私だろう」というのは思い込みであり、われわれの内面は想像以上に他者の気持ちへと遠征しがちなのだ。

健康な人にとってみれば、それは問題ない行為だ。
しかし考えごとは本来、上記のように「主体を明け渡す」という側面が強い行為である。
この点をうつ病患者はよく認識しておく必要がある。

つづく。



2015年3月27日金曜日

Babies cry


職場の隣が小児科のクリニックになっていて、仕事中しばしば子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。
「漏れ聞こえてくる」よりも「思いきり響いてくる」という表現が正しいか。
注射や医者を恐れて泣きわめいているのだ。
もはや半狂乱の子もおり、仕方がないこととは言え可哀想に思う。

かつてそれについて、「そんな恐ろしい思いをして、精神に影響はないのだろうか?」と思ったことがある。(心の問題を長年抱える私は、「ストレス」について考察する癖がある。)

その子供達は、事情を知るこちらでも耳を塞ぎたくなるほどの声で、自分を守ってくれない親をも非難しながら、まさに絶体絶命の危機を訴えている。
人間が「泣き叫ぶ」ことなど滅多にあるものではない。
もちろん子供の世界ではありふれたことかもしれないが、ともかく私自身が「泣き叫ぶほどのストレス」に今直面したら、自分がどうなってしまうのか想像がつかない。

しかしそのような子供達が(注射などを恐れたことによって)人格形成に異常をきたしたという話は無論聞かない。

思うに、「泣き叫んでいるからこそよいのだろう。
大きな恐怖ではあるが、それを拒絶し、相手を罵倒し、人目はばからず全身で抵抗する、そうやって「我慢していない」から大丈夫なのだ。

「拒絶する意志」を手放すことが危ない。
ストレスは、それに「堪え始める」ところから強力に発動する
どんなストレスかといった内容よりも、そこがポイントだと思う。

その子供達にも、いつしか注射をされても泣かない日がくる。
みんな泣いてないから僕も泣かない、など当人達が「納得」を得ながら自主的に乗り越えていく。

世の中で、そういう「納得」が常に得られるのならありがたい。
しかし現実は腑に落ちぬまま堪えねばならないことが少なくなく、注射のような単発ではない、反復的・長期の試練も多い。


「忍耐」には美徳の側面があるが、思い切って放棄することも、時にとても重要だ
大人だって、キャパシティの限界がきたら声を上げて叫ぶべきだ。
いざという時に「我慢」を放棄する勇気さえ持てば、「苦境」というものもさほど怖くないのかも知れない。


2015年3月20日金曜日


私達の奥底にある『健やかに生きよう』とする火は決して消えない。
その火こそ、私達の存在そのものである。

ボロボロになっても、そこを抜け出すきっかけに気づくセンスが失われることはない。
私達の根元は「機会の到来」を、いつまでも、伏せながらでも待つ。
最小の準備が整えば、必ずやそれを土台に立ち上がり、力強く歩き出す。


「私を守り生かす」という任務を、私の根本は投げ出さなかった。
一見すべてを放棄したかに見えた、苦痛と恐怖に屈した日。
その日のそれらも、苦痛は私へのシグナル、恐怖は私をそれ以上ムチャな道へ進ませぬための障壁として用意された、自らの適応力の産物であった。
粛々と任務は遂行されていた。


人は壊れない。
抜け道が見えにくい状況があるだけである。
混乱が一定まで収まれば、心身は自ずから「正しい一手」を打ち始める。
感性が向上し、快適な方へ向かえる日が必ずくる。

燃え続ける火を信頼し、時にはすべて忘れて休むといい。
自分の本来の強さを信じるのである。