2013年7月27日土曜日

読書感想『減らす技術 The Power Of Less』

レオ・バボータ (Discover21 2009/8/5)




いわゆるビジネス系の自己啓発本。

内容は、

①人生に有効かつ大きなインパクトを与えるかを考えて行動を「取捨」し
②「重要でないがしなければならない」ことは量の「制限」をしっかり行い
③かならず一度にひとつのことだけする(シングルタスク

の3つを守れば調子が良くなり、成功もするというものだ。
マインドフルネスの考え方を取り入れていそうである。
著者が主宰するブログのタイトルが「 Zen(禅)Habits」らしいので、やはりそうだと思われる。
マーシャ・リネハンの『弁証法的認知療法』の一部にとてもよく似ている。


内容は上記①-③の3行でほぼ足り、多くの部分はうす伸ばし・重複気味だ。
タイトルにのっとって自らページ数をもう少し減らしてもよいと思うのだが、さて置き①-③に徹するメリットは確かに計り知れないだろう。
コンセプトとして好きな本である。


ビジネス向けの自己啓発本は、たまに刺激として読むには少し良い。
読まずに済むのが最も良い。




2013年7月24日水曜日

うつ病とヴィパッサナー瞑想


鬱病にヴィパッサナー瞑想は効くか?

効くと思う。私の経験では効いた。
無理のない形で取り入れるのがポイント。
私自身、長年うつ病の症状(理解力・記憶力・判断力の著しい低下、頭痛、首・腰・背中・腕などの突っ張るような痛みと疲労に似た重苦しさetc)があったが、現在かなり緩和している。
症状の改善とともに体調のコントロールの仕方も身に付いてきているので、気持ちのゆとりと希望が持てている。


気をつけるべき点

うつな人が注意すべき点は、すべて完璧に実践しようと思わないことである。
「健康になりたい一般人」と同じ意気込みでいってはいけない。
うつ状態でできることは限られるからだ。


やり始めの時期におすすめ
① 深呼吸し、空気の出入りや、胸や腹の膨らみ・縮みの感覚に集中する
② スローモーション(動作をできるかぎりゆっくり行い、そのときの身体の感覚に注目する)
③ 歩く瞑想(歩きながら「右足」「上がっている」「地面に着いた」など動作と感覚に注目する)

慣れたころからおすすめ
④ 立つ瞑想、座る瞑想
⑤ 全身の身体感覚をスキャンしていくように感じとる
⑥ ラベリング(自分の肉体・精神すべての活動を心のなかで実況中継する)


個々のやり方の詳細は、関連書籍などを確認して頂きたい。
上記は一例ではあるが、とにかくうつ病の人が始める場合は

● やり方が手軽
● 効果を実感できる

ものに絞ることが大切だ。
⑥などは有名であるが気ぜわしくなりすぎることがあるし、⑤なども時間を要するため厳しいのではないだろうか。
部分的でもよいので、やれるものから無理せず取り組むことが大切だ。


余談

私はつねづね、ヴィパッサナー瞑想が
1.聖人をめざす人むけ:「悟り」コース
2.一般人むけ:「豊かさ」コース
3.不健康な人むけ:「健康」コース

のように分けて示されればと思う。
2や3を必要とする人が偶然に1レベルの厳しさに触れ、ついていけずにやめてしまったりするのがあまりにも勿体ない。

この瞑想が世の中で活用されないのは社会にとって大きな損失だと思っている。



2013年7月19日金曜日

本能


理性


「他人に迷惑はかけられない」
「あの人達を悲しませたくない」
私達は「理性」というものによって後ろめたさを感じたりして、道を外れぬように踏みとどまっている。

「理性」は原始的で欲求まかせの「本能」と対極のものとして扱われることが多い。
けれども「理性」を重んじることで得られるものは、「生き延びる安心」に他ならないと思う。理性的であれば社会から問題視され排除されることが少なくなるからだ。
排除されることは孤立を意味し、これは社会的生き物である人間にとって命の危機にも繋がりかねない状況だ。
だから人間は、死にたくないから、生き延びたいから、排除されぬように「理性」を示し合う。
そのように「(生存)本能」に命じられているのだ。
そう私は思っている。

つまり人間の「理性」は、本能の対極ではなく同源、いや同一のものなのだ。


全ては本能


理性さえが本能である。
そう考えて世の中を見渡すと、人間は本能以外の実に何物も持ち合わせていないように思えてくる。人間の活動のうち、「危険の回避」または「安定の追求」と言い換えられないものがあるだろうか。
愛も絆も、勝ちに拘ることも、逆にフェアに拘ることも、
疲れことも、逆にそこで頑張ることも、
…全てがそうだ。

あらゆる生き物は、「生命」を守るために必要なことだけしている。
それぞれが環境などの違いによりやらねばならないことが異なるだけであって、人間も例外でない。
人間も専ら「生存」しているだけであって、その活動の中に高尚なものなどないのだ。


快楽は悪?


人間は、ただただ本能の塊である。
われわれは全存在を、生存・繁栄のみに向かわせている。

そこに目を向けると、ちなみにだが宗教などにおける「快楽の否定」が気になってくる。
「楽しい」と感じる機能は、人間にとって明日の繁栄へ向かうための、極めて重要な原動力だ。
真に必要な物を手に入れた時に、われわれは快感を得るように作られているのだ。
「快楽は穢れ(けがれ)である」と言われると、特に日本人などはストイックな方向へのカン違いをしやすいと思う。
快楽のすべてを「無用な執着」と見なしてはいけないと思うのだ。



2013年7月16日火曜日

野田サトル『スピナマラダ!』


週刊ヤングジャンプに2012年49号まで約1年半連載していた、
アイスホッケー漫画。
作者:野田サトル
全6巻。


昨年、連載終了時(打ち切りと思われる)には、数日のあいだ目を泣き腫らした。
 
ホッケーを知らなくても楽しめた、

牧歌的ギャグ、

迫力のゲーム描写、

熱いドラマ、

そしてそしてキャラ、

すべて大好きだった。

イヤな奴はけっこう出てくるのにキライなキャラがいない作品だった。
荒削りに見えてとても丁寧で……変な萌えなどもなく…
 
 
↑ スピナマラダ! 1~6巻、表紙もカッコイイ。

こんな良作に正当な評価を与えない世の中を恨む。

某掲示板スレも雰囲気がよく、書き込みはしなかったものの楽しみに訪問させていただいていた。
どうもお世話になりましたm(__)m


読者アンケートのハガキを出した日々が懐かしい。


もう続きが読めないと思うとさびしく……



こうなったら自分で描いて、それを読もうか!

 ……何を言っているのだ……

 

野田先生、熱きファンのみなさん、
続編を微塵もあきらめていない男がここにもいます !
 






2013年7月12日金曜日

気休めの救いに終止符を


ヴィパッサナー瞑想を一言で表すと、

神経系を整えることで「性格を変える」訓練法

だと思っている。

「性格を変える」という点が最大の特徴だ。
瞑想している時だけ気分が良くなるというものではない。

「分かっちゃいるけどやめられない」というように、習慣化された感じ方・考え方などいわゆる”性分”を変えることは、些細なことであってもきわめて困難だ。
「気をつけ続ける」ことはできるが、実質的に「変える」のはなかなか上手くいかないものだ。
しかし、世の中には(私もそうだが)性格を何とかしないと「生活に差し支える」場合というのが実際にある。

そういう人は、ぜひこの瞑想を試すべきだ。
一過性の「気休め」でなく、直接的に心の整備に取り組める稀有な方法だと思う。

「うつ病」を始め、有効な治療法がないと言われてきた「境界性人格障害」などに対しても、この瞑想に関連する療法のエビデンス(有効性の証拠)が確認されているという。
また、病気とまでは言えない「性格の悩み」に対しても、効果を発揮するだろう。
仏教がルーツにあるが、技術的には独立したものなので教義などと直接は関係なく実践できる。


瞑想というとどこか「得体の知れないもの」というイメージがつきまとう。

しかし、「生きているのがつらい」人間を実質的かつ健全に救うものであるなら、それが子供が考案したものや歴史が浅いもの、さらに瞑想よりも突飛な何かであっても、私は構わない。


「生きづらい」人が一人でも減ることが私の心からの願いである。



2013年7月9日火曜日

身体から目をそらすな 


今日も、仕事の合間にヴィパッサナー瞑想をした。

私の仕事はデスクワークだが、それでも身体のあちこちに負荷がかかり、それに抵抗して力んでいる。

身体を支える上腕   机に接するヒジ   
上体を支える腰や背中   椅子に接した尻   曲がった足指
キーボー上で下に向けたままの手首   頭を支える首
噛みしめられた顎   眼筋   


探せばたくさんあると思う。

これらの箇所を「使っているという実感」なく使い続けると、私は体調を崩す。
業務では、どうしても「早く済ませたい」「きちんと仕上げたい」などの気持ちが先行し意識が外へ向きがちである。
自分の身体感覚をかえりみないまま長時間過ごすと、気づいた時には心身が苦しくなっている。

ずっとマインドフルなまま仕事するのが理想だが、それはなかなか難しい。
なので、休憩を小まめに挟んで頻繁に修正するよう心がけている。
身体のどの部分に、どのような角度でどんな感触の力がかかっていたか、どんな疲労が刻まれたか、
そう再確認するように意識を向けていると、しだいに心と身体がスッキリする。


日常の中でおこなう小さな瞑想は、私の生活に欠かせない。