2013年8月30日金曜日

ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 2


自分の身体を留守にする


人それぞれ心の形はちがう。人によって性格が違うし、同じ人のなかでも経験などにより性格が変わることもある。その、「心の形作られ方」について、思うことがある。
すべて私の心身を通した経験則、感覚の世界の話になってしまうが。



1 心に「形が付く」とき

「他人の立場になって考える」―日常よくあることだ。
知人Aさんの立場になって「私」を好意的にながめたり、あるいは同僚Bさんの目線でCさんを白い目で見たり、そういったことだ。珍しい行為ではないと思う。(個人的には「考えごと」はこのような行為が多くを占めるもののような気がしている。)

言ってみれば、ちょっと自分の肉体を留守にして他人の身体に乗り込むような、他者の内面にシンクロするような行為。この行為をすると、自分の五感や身体感覚が少し「ないがしろ」になる。身体感覚の意識がやや希薄になるのだ。


この「主体の留守」による身体感覚の無頓着が強度に生じると、心の構造変化が起こる。
そして変化したまま固定される。

心はそのようにできているようだ。



2 心の変形を解除する

上記の変化を解除するにはどうするか。
歪んだ時の状況を思い出して、その時にないがしろされたであろう身体感覚を想像する。

「あったであろう身体感覚を思い出す」というのは普段しない難しい作業であるが、それをすることでコンディションを一歩ずつ戻せる。



3 瞑想とは
ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスというものは、端的に言って上記2の作業なのだと思う。
身体感覚を過剰に偏らせたことにより失った、内面の統制機能を回復させる作業。
心は身体感覚でできているのだ。
その作業が上手くさせるために、仏教の諸々の教えがある。
「今ここ」、「穢れ」、「真理」、「空(くう)」など様々な理論は、集中力を高めたり習慣化を支える上で有効に機能する「イメージすべきコツ」であり、実際に身体内で起こる変化などの事実とは直接に関係はないと思っている。








0 件のコメント:

コメントを投稿