高校の授業
昔、学校で以下のように習った。
「上座部仏教は
個人の解脱をめざすもので、それに対し大乗仏教は
みんなで救われましょう、というものです。個人主義的で厳しい修行をともなう前者に対し、後者は人間をありのままに受け入れ、みんなで仏の道に従えばいいという考えです。日本に伝わって信仰されているのは、後者の方です。」
そう聞いて私は「上座部仏教というのは、自己中心的でイヤな感じだ。日本は大乗仏教を取り入れて正解だったな」と思った記憶がある。
その授業をした教師も同じように思っているような口ぶりだった。
空(くう)の概念
大乗仏教といえば、「空(くう)」だろうか。
すべては縁により移り変わり、不変なものなどない。
とらわれることの無意味を知り、すべて受け入れ、縁にゆだねる境地へと至るべし。
しかし、「空(くう)」の発見というのは単に人間の知的欲求を満たしただけではないだろうか。
その概念を用いていかなる有形な主張をも論破できようが、口論で敗けないことにさほどの意味はない。
空(くう)と瞑想
ヴィパッサナー瞑想に対しては
、「観察する」という行為が自他のギャップを強めており、それは「主客未分」という真理に反している、という批判がしばしばなされる。
「存在とは完全に不定なものである」という原則に則れば、自分と観察対象とをそれぞれ定まったものとして分けて扱うヴィパッサナー瞑想はおかしいというわけである。
こうした指摘に対し、私は何となく違和感をおぼえる。
「空」に始点や程度があることをその指摘自らが認めた形になっている気がする。
また、イメージや考え事を多少固定的にすることは、「空」性に反することとまで言えるのか。
「空」の完全性を前にして、瞑想中に「空」っぽくないイメージを抱くことがどれほど良くないことなのだろう。
そもそもだが、瞑想によって到達しうる感触が実質の「空」と同質のものなのか、その証拠はない。
同様のことは、こうしたジャンル全般に言える。
例えば上座仏教のヴィパッサナーでも素粒子の生滅を体感すると言われるが、そのとき感じたものが本当に素粒子であることを知る術はない。
人間が行ける範囲
「空(くう)」や「真理」は、人間にはたぶん関係がない。
と言うか関係あるとする必要がない。
人間は五官で感じ取ることの中で生きており、ゆえにその辿りつける最上の境地は「五官や自律神経の最大の健康」だと思う。
ちなみにややこしくなるが、理論の細部はともかく技術的にそれを実現できるのが、上座仏教のヴィパッサナー瞑想だ。
上座部仏教と大乗仏教、どちらがよいのか。
世界観や教義などに重視すべき差はないと思う。
ただ、上座仏教が伝えるヴィパッサナー瞑想には、ほかの何物にも代えがたい価値がある。
これを批判する人は、おそらくヴィパッサナー瞑想をちゃんとやったことがないのではないかと思っている。