2013年10月30日水曜日

PILOT『ジャストミート スリム』

 
先日から使っている油性ボールペン。
 
¥1,050-
 
 


木製(アオダモ材)のボディは、やや重いが、落ちつく感触だ。
 
 
 芯はBSRF-6F-B(0.7mm黒)である。
低粘性のインクでなく、同社の「SuperGrip」等でおなじみの普通の油性インク
普通の油性としてはやわらかなタッチである。
(インクというよりチップのせいか?)
 
 
余談だが、これと互換性のある低粘度油性の芯は少ない。
プラチナ社のものがあるが、あまり出回っておらず田舎での入手はおぼつかない。
 
と思っていたら、セブンライフスタイル(セブン-イレブンのオリジナルブランド)の油性ボールペンの替芯がプラチナ社製で、「だいたい」合うことを発見した。
 セブンで替芯だけ買える。
 
 
もともとのBSRF-6F-B芯も好きで、私はそのまま使っている。
 
 
 

ヴィパッサナー瞑想の準備


会社での昼休み。

私がいる部屋には、めったに人が入ってくることがない。
まとまった一人の時間。
瞑想をするのに適している。

 

ヴィパッサナー瞑想への入り方


①サマタ瞑想から入り、その後ヴィパッサナー瞑想に移行するべき
②始めからヴィパッサナーから入るべき

ヴィパッサナー瞑想の始め方については、上記の2種類の考え方がある。
②は、ヴィパッサナーから入ってもどの道サマタの精神状態を通るので、特にサマタから入る必要はないということらしい。

 

始めるときのコンディション


①と②どちらが良いかについて、私は「直前にしていたことによる」と思う。

直前も静かに落ち着いていたなら、ヴィパッサナーから入っていいと思う。
しかし、直前まで仕事や運動など何かをしていた場合、ヴィパッサナーからは入りにくいことがある。
ヴィパッサナー瞑想は力むものではないとは言え、一定の集中が要る。
「力まずに研ぎ澄ます」感覚に持っていくには、コンディションを整える必要があるだろう。
直前の「力み」の余韻はジャマになる。


サマタ瞑想の効果


サマタ瞑想では、まず「粗い歪み」を解消できると思う。
それをせずにヴィパッサナーから入ることも可能だろうが、それだと始め「苦しい」ことがある。
私はその感覚が好きでないので、まずはサマタで安定させている。
そんなに時間はかからない。

大きなゴミを拾ってから、きれいな道を歩く感じである。
そのあとは感覚を追ったりしやすくなる。


サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の境目は、感覚として確かに曖昧だ。
サマタの最中にヴィパッサナー的なことも起こるだろうし、ヴィパッサナーにはサマタが内包されていなければならないようにも思う。
まあ名前や区別はどうでもよいことかもしれない。


コンディションづくり


上手くやろうとしてはいけないヴィパッサナー瞑想であるが、上手く出来ていない状態はやはりある。
そうなって「調子悪い」だとか「もっと上手くやろう」だとか考え始めないよう、事前のコンディション作りには注意を払いたい。




2013年10月12日土曜日

うつ病に対する思い違い



うつ病の「無力感」


うつ病では、強い「無力感」を経験する。

身体や頭が痛む・重い、仕事などが上手くできない、
それら自体は、100歩ほど譲ってまだいい。
それらを「どうにもできない」、ここが精神的にくる。
努力というものを発揮できないのだ。

しかも何とかしようと力むと、そのたびに体調が悪化する。
まさに手も足も出ない。


思い違い


自らが罹るまで、うつ病というのは漠然と自信がなくなって死にたくなる病気だと思っていた。
自分がなって分かったのは、大した根拠なくネガティブになるわけでは決してないということ。

生活のあらゆる場面で基本となる「考える」という機能が、全面的に崩壊するのがうつ病である。
これまで当たり前のようにやっていた「物事を考える」ということが出来なくなる。
ごく単純なことさえだ。
そこから被るストレスは、「自信を失う」といったレベルではない。
自己の最大の拠り所である「 自我」の安定を著しくことの不安感というのは、原始的にしてある意味究極のもので、社会的・物質的なものを失う恐怖とは異次元である。
体験した人にしか分からないかもしれない。
為す術がなさすぎて、逃亡したい欲求に頭が支配される。
「気にしすぎだよ、ちゃんとやれてるよ」と言われたりするが、いやいや、色々なことにそれこそ必死の注意を振り絞ってやっと6割ほどに漕ぎつけているのだ。(6割ならまだいい方である。)
そしてふと気づくと、そのがんばりの力みにより更なる体調不良が引き起こされていたりする。

この状態が続く。
この先いつまでやっていけるのか不安が募り、疲弊し、しだいに「無力感」に屈していく。
それは、そうである。歴然と「無力」なのだ。


うつに苦しむ人は、むやみに死に惹かれたりしない。
生を断念せざるを得ないと考えてしまうほど、直面している問題が深刻なだけである。


瞑想を知ることがなかったら自分は死んでいたかもしれない、と本当に思う。



2013年10月7日月曜日

セブンライフスタイル『糸とじノート(S)』

 
糸綴じのノートは味があって好きである。
 
方眼はゴチャゴチャしてあまり好きでないのだが、これは線が濃くないので大丈夫。
 
サイズは13.5cm☓8.5cmと独特だ。(B7よりもタテが少し長く、ヨコが少しせまい。)
 

¥135-



 
 
40枚(=80ページ)では物足りず、2冊をくっつけて使っている。
 
表紙どうしを両面テープで貼り合わせ、幅35ミリの白い製本テープで留める。
 
たまたま余っていた白いものを使ったが、好きな色に変えても楽しそうだ。
 
2冊の間にくる表紙の厚紙2枚が邪魔なので、ノドから1cm位をタテに残して切り取った。
 
 

 
容量が増えて頼もしい。
 
趣味用のメモ帳として大活躍している。
 
 
 

2013年10月4日金曜日

ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 3


心の有り様は、構造がすべて。


人間の心というのは、何もなければ本来、軽やかで明るいものだ。
その方が自己の生命にとって好都合だからである。
悩みごとが少なく、より楽しいことが多いほど、「私」という生命は力強さを得て未来に向かって進む(繁栄する)。
極力、人生を楽しもうとするのが、本来の心の姿であるはずだ。


よって心が暗いのは、本来の状態からみればどこか歪んでいるはずなのだ。
理屈もなにもない。
うしろ向きな“雑念”は心の歪みから自動的に生じてしまうものであり、理性で統制するものではない。
自分を嫌わずに心を正しい構造に直せばよいだけなのである。


構造の「歪み」を取る


心の「歪み」は、どのように形成されるのだろうか。
私の経験では、心は考え事をしながら身体を使うことで歪む。

そしてその時に使われていた身体の部分の感覚を思い起こしてやることで、その「歪み」は解消していくことができる(→前回の記事「ヴィパッサナー瞑想の私的解釈(2)」)。


「歪み」は有限


ところで、注目すべきは、心は均一に濁ったりするものではないということ。

「心」や「性格」というのは、その人の「外界への反応」のうちの「特徴的ないくつか」を自他が把握したものにすぎない。
どんな変わった人にも、良くも悪くもないところ、気に留めていないまともな部分などもたくさんある。

おかしいところは、一部なのである。
問題は有限なのだ。
希望を持ってそれらを一つずつ直していけばいい。


有限とはいえ。


しかしながら、自分の心にどんな歪みがあり、どの順序で直していくべきかといのはちょっと分からないものだ。
したがって、ハズレも覚悟で全身をシラミ潰しに整えていくことになる。
それが、瞑想で「全身の感覚を感じよ」と指導される背景とも関連してくると思う。

理論上は各人ごとの無駄がないルートが存在するだろうが、それを始めに見出すのは聖人でさえムリだろう。
地道に試していくしかない。

実際にやってみると、かなり強力な歪みが他のルートを通った後にはあっけなく解消されたり、進歩していることに全く気づけなかったり、その道のりは予測しづらい。
なので、同じところを何度も通ってみたりする必要もあるだろう。

楽になる日が来ることを信じて、とにかく根気よく続ける。
それが何よりも必要なことである。