2014年2月25日火曜日

悟り 2


悟りと記憶


「悟り」とは、全身を巡る神経の体系が最大に健康になるともたらされる感覚を言うのではないだろうか。

また「悟り」の境地は、赤ん坊のころは誰もが有しているような気がしている。
それが成長の過程で、分別を身につける度に少しずつ失われいく。
そのプロセスが生じる理由は、われわれの「記憶」という機能と、「人格形成」及び「社会化」に関係している。

危機に遭遇した時、再び同様の危機に遭遇した時に正しく行動できるよう情報を整理・蓄積する、これが「記憶」するという機能の役割の原点だろう。
また「記憶」においては、単に情報を蓄えるだけではなく、それぞれの情報に応じて自分が適切に反応・行動する仕組み作りまでが同時に行われる。
そうでなければ「危機への備え」としては意味がない。

「記憶」では、その一連の作業において身体を巻き込んだ「癖づけ」がなされる。
人の反応や判断は、身体の感触と力を用いて行うからだ。

こうした仕組みづくりは非常事態に対してだけでなく、人やモノ・場所などとの初めての出会いなど何らかの緊張を感ずるたびにコツコツと行われ、データベースと自動反応システムの構築がつねに進められていく。

その過程こそ「人格形成」であり「社会化」なのだと私は思う。
「人格形成」は、その過程で身体感覚を巻き込んで固定されており容易に戻せない(容易に戻っては危機管理上、問題だ)。
三つ子の魂は百までだ。

(逆のことを言えば、身体感覚の体系にトラブルが起きると情報処理や感情の反応などに不具合が生じる。これがうつ病などだ。)


人は新しい世界と出会うたびに身体感覚構造の「増改築」を行い、危機を管理しながら、しかしそれと引き換えに精神の自由度を損ないながら大人になる。
そのようにして失われた自由度を、身体感覚を扱う瞑想によって回復することができる。




2014年2月19日水曜日

お金


金を稼ぐことは罪ではない、と訴える人がいる。

金が儲かることじたいが善でも悪でもないことは、誰もが知っている。
実際のところ儲けるとみっともなくなる人間が多いので、いろいろ考えさせられるだけだ。

儲けた結果できるようになった社会貢献が当初からの目的であったかのような物言いや、「自分が人一倍、納税によって社会の役に立っている」といった発言などを耳にするとモヤモヤする。

「自分が気持ちよくなるために全てやっている」と言われたほうが余程スッキリするのだ。