2014年4月24日木曜日

瞑想の「うつ」などへの効用について(米研究)


2014年 1月 07日付のウォールストリート・ジャーナルの記事『瞑想の「うつ」などへの効用は限定的=米研究』を読んだ。

記事の冒頭を引用⇓
 
瞑想は、不安や鬱(うつ)、痛みをある程度和らげるかもしれないが、薬物乱用や劣悪な食習慣、睡眠障害、肥満の抑制・改善などをもたらすという証拠はほとんど見つからなかったとする研究報告書が発表された。

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検索すれば読めるのでこれ以上引用はしないが、上記のような結果だったらしい。

で、記事をよく読めば「被験者は瞑想の訓練を30~40時間しか受けていない 」とのこと。
申し訳ないが話にならない。

報告を行ったのは米の一流大学の医師達であったが、30~40時間の訓練で効果に言及しようとした理由は何なのだろう。
それと、薬物乱用や劣悪な食習慣etcの深刻な状態に対しては、確かにむずかしい部分もあろうかと思う。
そこにこの「うつ」などへの~というタイトルのつけ方もまたひどい。



2014年4月16日水曜日

瞑想は危険か


瞑想は危険であるという見解を時おり目にする。

瞑想に特別なものを期待してのめり込むなという警告としては賛成である。
コンディションが不安定な人は無理に瞑想して体調を崩さないようにせよということか。
それもあってもいい指摘かも知れない。

私がいつもモヤモヤするのは、「瞑想は危険だ」と言う人がしばしば危険性を強調するだけで終わることだ。
瞑想をよく知らないことによる偏見をベースに書いている気がしてならない。

瞑想は危険な人には危険で、安全な人には安全だ。
瞑想で危機に陥るような人は、それ以前に重大な問題を抱えていると思われ、それは瞑想の危険性とは別の話になるだろう。





2014年4月15日火曜日

信仰などについて


一般人として瞑想に取り組むなら、気持ちのスイッチはとくに重要であろう。

気持ちのスイッチを入れるのが上手ければ、日常の出来事などを引きずらずにすむ。
空き時間を瞑想に充ることなども簡単になるはずだ。


瞑想は仏教に由来する。
寺院などは独特の建築・内装・香・音で空間が満たされ、世俗を脱ぎ捨て集中するにはとても理に適っているに違いない。

私はうつ病を治す目的で瞑想をしてきたため、体調の回復に関係ない理屈には興味が無く、仏教というものへの思い入れも少ないが、信仰心を持っている人がうらやましいと思うところはある。

神や仏などを信じられることは、きっと心強いものだろう。
瞑想する際も、自室に宗教的なアイテムを置くなどして集中しやすい環境を作れるはずだ。
誰にでも、信じて憧れる人物や元気になりたい時に聴く曲など、自分を勇気づけるものがある。
つねに合理的であることが最善なわけではなく、宗教であっても、あの雰囲気が好き、神秘的で格好いいぜ、という感じで、趣味のように接しても良いだろう。
それで元気が手に入るなら良いことである。


私もヴィパッサナー瞑想を知ったとき、2,500年もの昔に現代の心理学を超えたような手法が存在したこと、またそれを発明した人物がかの有名なお釈迦様であること、さらに人類はそれをあまり一般化させずにいること、などについて、なんてドラマティックで面白いんだと思った。

しかし残念ながら、宗教は自らの立ち位置を複雑にしてきた。
信仰心を良くない方へも利用し、胡散臭さをまとうものになってしまった。
その胡散臭さが、良い部分を見えにくくしているのは残念だ。


話がそれた。
瞑想のための気持ちのスイッチ、である。
無意味やゴマ化しを強く否定してきた私は、無信仰を通り越し、無感動のレベルかもしれない。
手軽に自分にスイッチを入れてくれる、つまりその気にさせてくれるものが皆無なのだ。

そんな私が瞑想にむかうモチベーションの上げ方は、逃げずにやり遂げることが色々な意味で自分の宿命である、と繰り返し確認することだけかもしれない。




2014年4月14日月曜日

全身を同時に。


ヴィパッサナー瞑想を生活に取り入れ、うつ病改善を目指している。
仕事をしながらであるが、自分なりに本腰を入れて1年と数ヶ月が経った。

独自のやり方も実践するが、それは純粋に自分の心身が示したものに従った結果である。
仮説が生まれ、そこに無理があれば廃れ、有益な方法なら自然に残る。
そういう経験のなか、書籍などで目にしない事柄に出会って感動したりする。

 
 
さて、このごろ強く思うのは「全身を」「同時に」感じる手法が最後には不可欠になるということだ。

無頓着に身体を力ませたら、その部位だけ感じ直すのでなく、その時の他の部位も感じ取る。
そうすることで効果がより確かなものになる。

私の感覚によれば、神経が歪む瞬間は、一つの活動をきっかけにしながら他の様々な箇所を巻き込みつつ、次の様相へ移行する。
うつ病のコンディションはコロコロ変化するものだが、その変化の一つ一つが、その都度の「全身の力み」を反映してゆくのだ。

うつ病になったら、何かをしながら過ごすときも、「全身を」「同時に」感じ続けることである。
また、体調が崩れた時のことを思い当たるなら、その時の全身の感覚を思い出してみるといい。


ちなみに「感覚を思い出してみる」ことによって改善するというのは、(なぜそうなるのかは未だに謎だが、)単純であり、ありがたい。

以下のように試してみよう。

・ かぶっている帽子の締まり具合は?
・ メガネの耳や鼻への圧迫は?
・ 目で「見る」ための力みは?
・ 首が傾いて、片側に力が入ってないか?
・ 荷物を持つ方の肩や腕、手首などに入っている力は?
・ 椅子や机に接する尻や腿、肘などの圧迫感は?
・ 立っているなら膝や足首にかかる体重の負担は?
・ 背中や腰は疲れてないか?
・ 空腹に堪えていないか?
・ 胃痛・腹痛に堪えていないか?
・ どこかのケガの痛みに堪えていないか?

上記は一例だが、このような様々な力みがそれぞれ同時並行的に存在している事実を認識し、それらの分布の状態を感じ取る。

はじめはヴィパッサナーやマインドフルネス系の瞑想の基本を訓練しつつ、自分の内側の有り様を個々に感じることに慣れればよいだろう。
そして最終的には全身同時!というふうに憶えておいてもらいたい。




2014年4月2日水曜日

今ここ


ヴィパッサナー瞑想においては「今ここ」が強調されるが、これにこだわるあまり妄想を排除しようとし過ぎてはいけない。

「今ここ」を生きることは、まったくもって正しい。
そう知ることは重要であるし、それを最終目標にすべきでもある。

ただし、「今ここ」と同化できるのは、かなり修行が進んだ者である。
そういう人は軽い意思で雑念を排することができる。
それが長い間あたりまえになっているため、ベテランの方などが「雑念が生じないように観察し続けよ」と何気なく言ってしまうことがある。

そう言われたら、初心者などは「よし、雑念を締め出そう」と考えてしまうのが普通だ。
しかし上級者が感じることをそのまま伝えて、それが初心者にとって役立つとは限らない。

瞑想中に雑念が浮かんだら、雑念が生じたという事実を認識することが必要だ。
「雑念を認識する→それとの接し方を正す」というプロセスのすべてが重要なのである。
前回も述べたが、妄想をいま排除することが目的ではなく、妄想の起こりに正しく応じることで、その出どころを矯正することが目的だからだ。

ヴィパッサナー瞑想のコツが掴めてくれば、雑念は結果的に減っていく。
あくまで、結果的に、である。


たしかに瞑想しながら雑念にあまりにも振り回されるのは良くない。
その状況で何か自分に言い聞かせるとしたら、「今ここ」よりも「今ここの身体」が良いだろう。