2014年6月27日金曜日
近況 ~かつて通った場所~
このごろ頭が痛む。
耳の上あたりと、首の後ろ。
突っ張るような痛みだ。
体調を崩した初期(8年前くらい)の痛み方によく似ている。
私のうつ症状は、時間の経過とともに感触を変化させた。
「身体が痛む」「思考が拙い」のは継続しつつ、それに加えて、こめかみが激しく痛む、夜に眠れない、身体の左側の感覚がおかしい、腹部の力が入りにくい……など、時期によってメインになる症状が入れ替わった。
また、その各ステージには対応する気分がセットになっていて、強気、センチメンタル、無能感…など、優位な感情もその時どきで入れ替わった。
そのつど世界が違った心象で感じられた。
うつ病の回復は、遡るようにして進む。
今いるステージから、ひとつ前のステージへ。
私がいま立っている「こめかみが痛いステージ」は、冒頭でも述べたようにかつて立ったことのある懐かしい場所だ。
そして興味深いことに、やはり当時と「気分」や思考回路も似ている。
セット、である。
人間のマインドが、肉体をともなう内的構造に強力に道を付けられていることを、再認識させられる。
頭と身体の全体で、「心」なのだ。
かつて今日と似た体調の日、私はただ混乱・恐怖するばかりで、さらなる迷走へ転落していくばかりだった。
しかしその後長い年月を経て、瞑想によるコントロールを少し身につけた私が、一歩引いた所から自分の体調を眺めている。
どのように持っていけるか、腕が鳴るといってはおかしいが、旧敵にリベンジを挑むような奇妙な感慨がある。
体調を戻す過程では、しばしば上記のようなかつて通った場所を再び通る感覚を体験する。
症状のバリエーションを数多く経験し、それぞれに冷静な目を向けられるようになってから気付いたことだ。
私はけっこうな年月を要したが、良くも悪くも「慣れ」は何にでもある。
病気も例外ではない。
いま最大と思える苦しみのうちにいても、病気に渡り合って凌駕できる日がくることを信じてほしい。
偉そうに言えるわけではないが、私は少なくとも、希望を持って生きられるようになっている。
2014年6月20日金曜日
いますべきこと
2014年6月13日金曜日
瞑想をこう呼びたい
2014年6月6日金曜日
目の力み
前回も触れたが、われわれ人間は、常に全身を活動させている。
生きている限り、体のなかに「死んでいる箇所」はない。
活動の強弱はあろうが、たえず全身を使い、それらを連動させていると言えるだろう。
自分がいかに無意識に身体を使うかに気づくことが大切である。
身体の活動を細かいところまで感じることが、心の健康のために必要だからだ。
さて、私の経験上、その存在がとても大きいにも関わらず見落としがちだったものがある。
それは「目」の活動による力みである。
目というのは、起きている時間のほとんどにおいて開かれ、連続的に働いているものだ。
光を受け入れ、焦点を合わせ、結ばれた像に認識を伴わせ…つまり「視認」している。
この一連の仕事において発揮される「力み」の存在を、私は長いこと認識していなかった。
物心ついてからずっと、あまりにも自然にやってきたからだろう。
身体の力みの「分布」を省みるとき、「目の力み」の把握が抜けていたのである。
それを意識してから、私の瞑想の効果は髙まった。
* * * * *
話は変わるが、「想像の世界」も、現実の世界のように五感で認識したような形をとっているように私は感じる。
人間は五感を通した経験しかないので、五感を通したような形の情報しか扱うことが出来ないのではないだろうか。
抽象的な思考なども、実は色・形・位置関係などを有する、モデル化された図のようなものを「視る」ように行なっている、という感覚がある。
このことと人間が扱う情報のうち8~9割が「視覚情報」であることとを考え併せると、「想像」の内容も「視覚情報」の形に類似したものが大部分だと考えてよいだろうし、実際にそう感じる。
以上から、われわれの「精神・心」の姿とは、「たえず視ている主体」と言い表せるように思う。
今も、さっきも、あの時も、さらに頭の中でも、私達はたえず何かを「視ていた」。
「視る」ことについて考える意義は、極めて大きいように思う。
(関連事項として、震災後に注目がさらに高まったトラウマ治療法EMDR[Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法]も、マインドフルネスに内包されるメカニズムによるものだと私はみている。見るという行為と心との関連に特化した瞑想手法とでもいうべきものか。こちらもエビデンスのある心理療法として知られている。)
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