2014年6月6日金曜日

目の力み


前回も触れたが、われわれ人間は、常に全身を活動させている。

生きている限り、体のなかに「死んでいる箇所」はない。
活動の強弱はあろうが、たえず全身を使い、それらを連動させていると言えるだろう。
自分がいかに無意識に身体を使うかに気づくことが大切である。
身体の活動を細かいところまで感じることが、心の健康のために必要だからだ。


さて、私の経験上、その存在がとても大きいにも関わらず見落としがちだったものがある。
それは「目」の活動による力みである。

目というのは、起きている時間のほとんどにおいて開かれ、連続的に働いているものだ。
光を受け入れ、焦点を合わせ、結ばれた像に認識を伴わせ…つまり「視認」している。

この一連の仕事において発揮される「力み」の存在を、私は長いこと認識していなかった。
物心ついてからずっと、あまりにも自然にやってきたからだろう。
身体の力みの「分布」を省みるとき、「目の力み」の把握が抜けていたのである。
それを意識してから、私の瞑想の効果は髙まった。

*  *  *  *  *

話は変わるが、「想像の世界」も、現実の世界のように五感で認識したような形をとっているように私は感じる。
人間は五感を通した経験しかないので、五感を通したような形の情報しか扱うことが出来ないのではないだろうか。
抽象的な思考なども、実は色・形・位置関係などを有する、モデル化された図のようなものを「視る」ように行なっている、という感覚がある。 

このことと人間が扱う情報のうち8~9割が「視覚情報」であることとを考え併せると、「想像」の内容も「視覚情報」の形に類似したものが大部分だと考えてよいだろうし、実際にそう感じる。

以上から、われわれの「精神・心」の姿とは、「たえず視ている主体」と言い表せるように思う。
今も、さっきも、あの時も、さらに頭の中でも、私達はたえず何かを「視ていた」。
「視る」ことについて考える意義は、極めて大きいように思う。


(関連事項として、震災後に注目がさらに高まったトラウマ治療法EMDR[Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法]も、マインドフルネスに内包されるメカニズムによるものだと私はみている。見るという行為と心との関連に特化した瞑想手法とでもいうべきものか。こちらもエビデンスのある心理療法として知られている。)



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