2014年10月31日金曜日

自動マインドフルネス 「スローモーション」


私が愛してやまないヴィパッサナー瞑想。
自分の心身を感じ取り、自律神経を整える。


体中の身体感覚のなるべく全てを、内側からいろいろ感じ取っていく。
しかし「痛い」「痒い」、「暑い」「寒い」などは分かりやすいだろうが、何気ない小さな感覚を拾うというのはピンとこないかもしれない。
そんな時にはスローモーションの活用をおすすめしたい。


スローモーション


「スローモーション」の瞑想技法は、ヴィパッサナーなどの知識がある方にはお馴染みだろう。
ザックリ言えば、太極拳のようにスローに身体を動かすことである。
それにどんな意義があるのか。それは、

1. スローであること
2. モーションである(動いている)こと
のそれぞれに意味があるように感じる。


“スロー”の利点


「スローな動き」の意義を、逆の「速い動き」と比較して考えてみる。

身体の「速い動き」は、意識が注がれているようで実はむしろ無造作なものだ。
たとえば顔の前で「グー」をつくり、次に素早く「パー」にしてみる。
この時、開き始めに瞬間的に力を入れたあとに、反動や惰性でパーまでいっている感じが分かるだろうか。

今度は、極端にスローな動きでグーからパーへもっていく。
半端な遅さでなく、動いてないんじゃね?というくらいに、極限までスローにしてみる。
このとき拳を開くために使う箇所を全て感じ続けないと、極限までスローにできないはずだ。
前腕、上腕、肩、胸や首まで意識しないと、本気の「遅さ」は追求できない。

「速い動き」は初動のあとに力を抜き、慣性で振り回すほうが効率がよいが、「スローな動き」の方はスローであるほど各所をキープする必要が生じ、マインドフルでなければ不可能になる。

上記を意識してさまざまな動作を行なってみよう。
身体のいろいろ箇所を感じることが出来てくるはずだ。
このように、超スローは身体に意識を向けることのセンスを高めてくれる。
慣れたら、超、でなくてもややスローでもよいかと思う。


“モーション”の利点


心身の観察は、コツを掴めばじっと座りながら行うことも可能だ。そうなれたらスローモーションは必要ないかというと、そうでもない。
スローモーションは常に優れた瞑想手法である。

使う身体の箇所は感じやすいからである。
たとえば腕に残った力み等は、ヒジの曲げ伸ばしや手首を回すなどの動作を行いながらの方が感じ取りやすい。
これは、力みというものが身体を使う中で形成されることが多いので、同じ箇所を使う中での方が出会いやすいためだと思う。


まとめ


スローモーションは身体の感度を高める基礎的なトレーニングになり、またマインドフルネス状態へ効率的に移行するための補助にもなる。
それでいて「技術」と呼べないほどシンプルなものだ。
ぜひ生活に取り入れ、活用することをお勧めしたい。



2014年10月24日金曜日

諦めなかった

 
以前の記事で、自殺すべきでない理由は『人生が勿体ないから』と述べた。それはある時期から一貫して変わらない。
しかし、ふと思い出したことがある。
うつ病が最悪の頃、自分はどんなふうに絶望を乗り越えたのか?


―症状に追われパニックのようだった初期
―簡単に治りはしないと悟り、恐怖を深めた中期
―瞑想に出会ってからの後期

うつ病の経過は上記のように分けられるだろうか。長くハードな日々だった。
「もう生きられない」と何度思ったか分からないが、私を直接踏みとどまらせたのは、冒頭の『人生が勿体ないという考え』ではなかったかも知れない。


私はうつ病になってから、健康な人生というもの全てを見下すようになっていた。
心を病むことの恐怖と損失を知ってから、世間の問題のほとんどが取るに足らないものに思え、あまりに表面的なことに心身を躍らせているようにしか見えなくなった。
世界の大部分を敵視した、閉塞的な精神状態に陥っていたのだ。

そのため、自分が死んで誰かが悲しむことなど気にしなかった。
そもそも私の身に起こっていたことを健康な奴らの誰が理解していたか、くらいにしか思わなかった。

そんな極度に自己中心的で死を日々意識していた私が、それでも自殺を実行しなかった理由は、「私と似た状況にいる人達」の存在があったからだと思う。
具体的にそういう誰かを知るわけではないが、誰かがいつ終わるとも知れない苦しみの中、私のように必死に模索しながら生きている様を想像することは、ある種の支えになった。

私自身も「こんなに頑張っても意味ないのではないか?」という不安とせめぎ合って生きてきた。
私が死んだら、「やはり無意味だった」ということを私自身が証明することになるのではないか…。

同志への裏切りとも言える「安易な投降」はしたくない、という思いが私を生かし続けたのだと思う。
逆恨みに心を明け渡した私が、最後にもてる誇りだったのだろう。


* * * * *


自殺の可否に対する答えは、「一般論として」、「他者を救うため」、「自分を救うため」など、目的によって落とし所を変えざるを得ないものだと思う。
そしてそれでいいのだろう。
答えを一つに定めるよりも大切なことはある。
いま、人を救う。いま、自分を救う。
そのために最もうまく伝わる言葉に、誤りもクソもないと思う。

私は「人生が勿体ないから」、自殺に猛反対だ。
「もう終わりだ」と思っている時の人間に、その時の自分が本当に「終わり」か否かを正しく判断する能力はない。
極度の窮地にいる自分にそんな重大な判断をさせてはいけない。
その後のあらゆる可能性が途絶えかねないのである。
勿体ないと言わずしてなんと言おうか。



2014年10月17日金曜日

アスリート


うつ病の管理のために私が何よりも重視しているのは身体の使い方の管理とケアである。
『肉体の管理』がライフワークとは、さながらアスリートのようである。

アスリートと言うとカッコよい気分にもなるが、そう自分に暗示をかけることでモチベーションが高まれば、という魂胆もある。




時を纏(まと)う物

学生のころ古着が好きであった。
当時、大阪から『ネオ古着ブーム』というのが起こり、関西にいた私はそれにハマった。

ネオ古着ブームとは、40~70年代のアメリカ物のVINTAGEブーム後に到来した、80~90年代の音楽・スポーツ・スケート・企業・パロディなどのストリート・サブカルを背景にした、カラフルな古着の流行であった。
前者を昔の労働者・軍人・カウボーイなどのコスプレ、後者をミュージシャン・スケーターなどのコスプレとイメージしてよいかもしれない。

ネオ古着の流行は、音楽の流行と強く絡むものだった。
米西海岸の乾いた空気感や欧州clubの先鋭的で湿気を帯びた高揚など、音楽のトレンドを取り込んで流動していった。
また、敢えて古いものと新しものをミックスする、映画・音楽・ARTなどのウンチクを効かせるなど、『分かる人には分かる』情報戦さながらの幅広い表現を生み出しつつ、パワフルに広がっていた。

(そもそも古い物はアーカイブの側面をもつが、路上文化やサブカルチャーがその歴史を振り返るに足る厚みをもつに至った時期だったのかもしれない。)

しかし、諸行は無常。終わりのないブームは無い。
高い自由度を誇ったその流行も、象徴的なスタイルが溢れ、停滞し、そのものが1トレンドと化しながらやがて時代の波に押し流され消えていった。

実のところその流行自体、ごく狭い世界での出来事だったのかもしれない。
そこに生き、酔いしれた私は“若者だった”ということに尽きるが、古着を通してさまざまな時代の『空気感』にかりそめにでも触れた経験は、自分の財産になったと感じている。


たわいもない昔の話。
そんな、過ぎし日を振り返る理由は……先日、久しぶりに古着を買ったのである。




まったく古くなく、高価でもないLevis519。コーデュロイでなくデニム。

歳を取るにつれ古着は着なくなり、ほぼ全て手放してきた。
しかし近頃、何となく古いものに惹かれる
古さというよりも、時を経てきたということに親近感や愛着のようなものを覚える。
お前も、長いこと世の中を眺めてきたんだな……というような。

そうした湿っぽい物の見方は、いまの私の体調には好ましくないのだが。

いずれにせよ、“かつて若者だった私”も歳を取ったということだけは言える。





2014年10月10日金曜日

「苦痛」も自分の一部


このごろ体調が良い。
頭・首・背中などにピリピリしたつっぱり感があるが、全体的にシンプルである。
なによりも、「必要ないことから自然に意識が離れる」という認知面の軽やかさが良い。

私はうつ病による心身の「痛み」「重苦しさ」を抱えている。
それがセンサーのような役割を果たし、瞑想の効果や意味をよく感じ取ることができる。
「体調がどう改善・変化したか」という明確な基準をもつわけである。

ある意味、うつ病の「苦痛」も身近なものに思える。
親しみと言うとおかしいが、それを通して心身を考え、理解し、管理して生きている。
この苦しみと付き合うなかであらゆる理解を深め、人生観の核を築いてきたことは紛れもない事実だ。
新たな人生観が得られたこと自体は喜ばしいことだと思っている。



Spirit and the body:スピリチュアルについて


私は、「スピリチュアル」系を頼りにすることがない。

宇宙の何々とか、引き寄せとか、そういうもののことだ。
そういったものがあるならば私も嬉しい。
優しくファンタジックな頼れる力がもし存在したなら、素敵なことである。

しかしそういうものを信じることで幸福が手に入るなら、その力の主は
「信じて心を開いた人だけハッピーな方に導こう」
という、贔屓めいた意図を有することになるだろう。
大いなる力が本当に存在するならば、それは人間の価値感による幸・不運など超越してるだろうし、また「知らない者には働きかけない」といった意味不明な原理を持っているはずもないと思う。

とは言え、健康を損なっている人は、スピリチュアルでも何でも活用して体調を良くするのが優先かとは思う。
うつ病においては「迷わない」ことはとても大切で、それが手に入るならば、極論何を信じたってよいだろう。

ただ私のようにスピリチュアルに馴染めない人もいる。
私に言わせれば、「運命」というのは当事者の納得や祈り等とは完全に無関係だ。(言うまでもないが。)
自分の身の回りには、これからもどんな事だって起こりうるだろう。
心身の鍛錬によって備え、それで通用しなければ「終わり」でよい、と思っている。

ちなみに私が信頼する、私にとっての言わば神様は、私の「身体」とそれを内包する「自然」である。
とくに私の身体(body)は人間のことを何でも知っていて、よく聞けば全て教えてくれる大先生である。



2014年10月3日金曜日

MUJI『ABS最後の1mmまで書けるシャープペン』


3年ほど使っている。
思い入れを抜きに「使用感」だけで言えば、歴代ベストのシャープペン。
(思い入れも加味するとKERRY、STAEDTLER製図用、ZOOM、コクヨフィットカーブなども上位。)

太さ・長さ・重心など全てしっくりくる。
また見た目もチープすぎず重厚すぎず、私には理想的。
商品名にもなっている「最後の1mmまで書ける」機構も素晴らしいが、そうでなくても私にとってNo.1である。

税込¥450- ファミマで買える






ちなみにABSとは、軸の素材『ABS(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレンの頭文字)樹脂』のこと。


安価だが気づけば長い付き合いになっている、こういう物は貴重だ。
惚れ込んで手に入れても長続きしないことは多く、またシンプルならば必ず飽きがこないかと言えばそうとは限らない。

モノとの相性というのはなかなかに微妙だ。