2015年1月30日金曜日

普通


「自分だけが取り残される焦り」にとらわれたことがある。
私がうつ病でノロノロしている間に同級生などは経験を重ね、年相応なものを身に付けながら活躍していく。
そんなイメージが頭から離れないのだ。
実際のところ、うつ病になりさえしなければ自分が望む全てを手に入れたかと言えば、無論そんなことはないだろう。
これが相応というものか、そう思ったりする日もある。
とは言え、調子を大きく崩した日などは「この病さえ無ければ」「あの生い立ちさえ無ければ」といった、悔しさや嫉妬や不満に悶えるのである。

ああ、俺はいつまでこんなふうなんだ…
病気を治し、さらに遅れを取り戻すなんて、ここからどれだけ登らなきゃならないんだ…



こうした苦悶は、しかしやがて減っていった。
世の中が案外「普通」のことで回っていると理解したからかもしれない。

どんなに立派そうなことも「普通」の積み重ねで形成されている。
ほぼあらゆる場所において、「普通」の実行よりも優れた働きはない。

また、自分は病気なんだから、何かができない・苦しい、というのもまあ普通だ。
イヤな状況だが、何も不思議なことやスゴイことは起こっていない。

なんと言うか、私はそもそもすべてのことを大それたことのように捉えすぎてきたようだ。
それを闘病期間を通して学んだ気がする。

たしかにこの世界には、自分が守られているという保証などありはしない。
けれども、大部分は「普通」の範疇・法則で回っていて、メチャクチャとまでは言えない。
そうである。
多くの部分が「普通」に回っているからこそ、こんなにたくさんの人間が生きていられるのだ。

私は世界が案外地味に回っていると悟ってから、自分は自分、地に足を付けて頑張っていこう、という気持ちを強く持てるようになった。




土台


一時的な環境などにより偶然うつになったような、アクシデント的なケース。
それに対し、「もともと”うつ“だった人格」が満を持して発症したようなケース。

「うつ病を数か月で治しました」といった話は前者に関することだと思う。
後者のタイプの人間にとっては、あまり参考にならない。

土台が違うのだろうが、そこをゴッチャにして論じられていることが多い気がする。



2015年1月23日金曜日

鈍い痛みの怖さ


うつ病の身体の痛みが、激しい時期と鈍い時期があった。
激しい時期はつらいものだが、病気の状態自体は浅いのではないだろうか。

始めの半年くらい、頭・首・腰などがとても激しく痛んだ。
パンパンに突っ張ったり、キリキリしたり、痺れたり。

その後に沈静化して鈍痛になり、それが何年も続いた。
顔が歪むほどの痛みはなくなり、生活はしやすくなった。

しかしこの鈍痛の方が不穏である。
角が取れたのは良いが、そのせいであちこちに転がりやすくなったような、抜け出しにくい手強さを感じる。

鈍化したら、良くなったのではなく複雑化したのかもしない。
変に落ち着いてしまった、厄介な状態であるように思う。



2015年1月16日金曜日

現在から遡る


心の構造に変化が起こると、その影響によって思考や行動パターンにも変化が生じる。
そのパターンは反復によって強化されていく。つまり新たな癖のようになっていく。
例えば、何かの経験を機に卑屈になると、その後「卑屈な習慣」を重ねることで卑屈さを強めていく、そんな様なことである。

このような「こじらせ」のプロセスにおいては、段階を重ねていくほどに最初の原因の意味は薄れていく。
「最初のトラウマ」ではなく、その後の「習慣」が言わば第2・第3の元凶となって影響力を行使していくのである。
最初のきっかけを突きとめても生き方が戻らないのはそのためだ。
そして、心の問題というのは残念ながら、その多くが「こじらせ」の先で状況が複雑・深刻化したあとに自覚されるものである。


省みるべきは、出発点よりもまずは「最近の習慣」だ。
自分を縛るラスボスは、代替わりを繰り返しながらずっとそばにいるのである。
元凶が始点に居座っているイメージは捨てなければならない。

過去を探るよりも、直近のものから順に、折り重なった心のクセを解いていくのが正しい。
いまの自分の感じ方」にまず注目し、「おかしいと感じる」習慣をやめてみる。
うまく状況が好転するのは、そこから始めた時である。
「今」は常に、「自分が最も向き合うべき問題」に触れられる最先端・最重要の場所である。



2015年1月9日金曜日

剣道


体調がもう少し良くなったら剣道をしたい。
小2~高3の頃にやっていたので、もう20年近く間が空いたことになる。

大人になってから剣道を再開することをリバ剣(=リバイバル剣道)というそうだ。
剣道には『筋力の強化』以外にも強くなるための方法がたくさんあるので、体力がピークを過ぎた年齢でも楽しめる。


筋力以外の要素


剣道における、『筋力』以外の要素とはどういったものか。

たとえば、『相手が技を出してくる』瞬間。
これはピンチなようで実は大きなチャンスだ。
相手は打つことで頭がいっぱい&飛び出してしまっているので、防御に手が回りにくい。つまりかなり無防備なのだ。
その瞬間をついて、相手の面を打つ。

遅れて出ながら相手に先んじることは可能である。
それを成功させる要素は、大きく2つある。

1つは、後れが生む距離の節約だ。
相手が飛んできているということは、こちらに近づいているということ。
その分こちらは短い距離を飛べばよいことになる。
短い距離をコンパクトに打ち込むことで、相手に先んじる。

もう1つは、機会の把握だ。
短い距離を飛ぶとは言え、タイミングを見誤ればやはり先に打たれてしまう。
「相手が次の瞬間にくる」と察知していることが重要だ。
あくまで機会を正しくとらえ、十分な備えで打つことが求められる。
この『機会の把握』については勘に頼るのではなく

・相手を焦らせ、迂闊に飛び出させる
(人は圧力に屈すると待てなくなり、攻撃は最大の防御とばかりに飛び出してくる)
・相手に、「隙がありそうだから、いま打てばいけるんじゃないか?」と誤解させる

など、こちらからの働きかけによって『相手を動かす』ことで機会を生み出す。
つまり相手の攻撃の機会を演出するのだ。
そのように相手の動きの予測の確度を上げる工夫をする。


剣道は、こうした技を打つ前の準備=技前(わざまえ)の探求がおもしろい
人間の反応というのは場面ごとに本当に無数にあり、そこを研究していくと、やるべきこと・やってはいけないことが分かってくる。

ラクにきれいに技を決めるための戦術を見つけ、使い物になるまで試行錯誤する。
それを積み上げて『流れ』の作り方に長けてくると、腕力がなくても勝てるようになるはずだ。


3K


ある程度習熟した世界には小手先で通用する手はなくなり、どうしても人の心理とそれにともなう動作の考察が必要になる。
そこに足を踏み入れれば、そこから先の奥は深く、工夫の余地が尽きることはないように思える。


剣道は3Kと言われる。くさい、汚い、厳しい、だ。
くさい…たしかに。防具を使うスポーツが臭うのは仕方ない。ちなみに今は洗える防具もある。
汚い…これも防具を洗わないことが多いからか。だがそもそも人間なんて雑菌の塊だ。
厳しい…何のスポーツも厳しかろう…。

汗もにおいもキライ、な子猫ちゃんではないのである。
稽古のあと、その辺で水浴びでもしとけばいい。野武士のように。
ロマンだ。


おわりに


剣道に心惹かれつつ、その醍醐味を十分に味わうための体調・気力の回復がまだ不十分だ。

剣道再開は夢である。



2015年1月2日金曜日

歪みの増え方


「歪み」が、次の「歪み」を呼ぶ


「心」は頭や胸(ハート)にではなくからだ全体に広がっている。
だから心は、身体の使い方に大きな影響を受ける
心を健康にするには、身体感覚を内側からしっかり感じ、丁寧に向き合う習慣にしておくと良い。
自己の身体感覚をないがしろにて生活していると、しだいに心には歪みが生じてくる。


身体感覚の無視を続ける
   ↓     
「自由度が低い」心に変質する  
 = 思考力や感性の低下
 (具体的には学力や仕事力の低下及び運動神経や人徳のて低下など)
   ↓

何とかしようと頑張る
   ↓  
 
さらに意識が身体感覚から乖離する
   


以上のように、悪循環が起こって『歪み』が増え重なっていくことになる。



全身に同時に波及する「歪み」


また、一つの歪みは、全身の感覚に影響する。
そしてそこへ次の歪みが加わり、その影響がまた全身の感覚を塗り替える。

そのような「刷新の歴史」を繰り返してきた身体感覚が、今現在の「私」という自我である。